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南米いけばなの旅

いけばなの中の空間―― チリ 2

 飛行場で税関から出てきたとき、華やかなパステルカラーの一団がフワッとざわめいているのを見て、おや、どなたを迎える婦人たちかしらと、さまざまな髪の色を見て思った。やがてこの一団が、花のように移動してきて、J氏と私たちの前でとまり、なかの一人が一歩進み出た。彼女たちはスーツか、ワンピースを着ていた。
「先生方、ようこそチリにおいでくださいました。チリのいけばなインターナショナルを代表いたしまして、私たちは心より歓迎いたします。何かご用のときは何なりとお申しつけください。喜んでお手伝い申しあげます。ただいまよりメンバーをご紹介申しあげます。××夫人……そのとなりは××夫人……」
 そう言っている顔は、写真で見覚えのあるB夫人だった。
 私たちは一人一人と握手した。思いがけないこの歓迎に、私たちは戸惑った。そして、これが陽気といわれる南米の、ひとつのフォーマリティなのかと思ったのだった。
 それはどこからくるのか。他の国と比べれば純粋のインディオが極端に少ない社会構成のためか。
 スペインを主とした各国からの移住者のなかで、たとえば大土地所有者である貴族階級が小作人に対するとき、この国ではインディオと白人というようなはっきりとした人種のちがいがないため、何らかの方法で一線をひかなければならない。その必要性がこのフォーマリティを育てたのかもしれない、と私は推測した。
 しかし南米のイメージといえば、陽気で、ややいいかげんで、ゆっくりということが強調されるあまり、日本ではその背景にあるフォーマリティは無視されているような感じがする。すじ道を通すこと、形式を重んじること、きちんとすること。それは南米にもむろんある。
 チリのほか、アルゼンチンにおいても、この「けじめ」はやはり強く感じられたのだった。それもまた、ものごとを進めていくときの適当なアクセントにもなるようだった。
 もっとも、飛行場での歓迎風景のようなことはチリではこれきりだった。あとは「娘たちがやってきた。ここはひとつ、皆で何とかしてあげなきゃ」という雰囲気にすっかり変わっていったのである。そしてこのときから、二十センチの距離のおつきあいがはじまったというわけなのだ。
 
 サンチアゴに着いてすぐホテルに入った私たちは荷物を部屋におくと、その足でチリの私たちの流派の支部長であるB夫人の車を先頭にして花材採集にでかけた。B夫人の知り合いの公園で、なたまめやアカシアに似た黄色い丸い葉をもった木、大きなシュロの葉を切らせてもらった。いまにも雨が降りそうな空だった。デモンストレーションは次の日の午後に一つ、またその次の日に一つ入っていた。
 花材採集をしたジャーマンクラブから、車体よりだいぶはみだした木々を屋根の上に積んだ小さなB夫人のフィアットを追いながら、私たちはホテルに向かっていた。
 街路樹はすっかり色づいていて、サンチアゴの町はそこまできている冬に、もう十分に心がまえができているようだった。ある道を車で通っていると、道路のわきに、ススキが山になって捨てられているではないか。たばねて道路に出ているということは、ゴミ収集の車に持っていってもらうということなのか。ボリヴィアで苦労して集めたススキが、いまサンチアゴの道路の端に大量に捨てられている。
「あ、すみません。ちょっととめてください」
 車はブレーキをかけ、キーッという音とともにとまった。
 バックしてもらった車から出て、私たちはススキの山にかけよった。しかし手をふれると穂はもうほうけていて、ポロポロと落ちてしまう。それでも私たちはあきらめず、一つ一つを見ながら、その山のなかからまだしっかりしている数本を選びだした。
 あとでB夫人は「やっぱり」と言って笑った。
「前の車もやはり気がついて、とまろうかどうしようかと皆で言いましたの。でもね、後ろの車もきっと気がついて、このススキがいるのなら車をとめるでしょうよ、と言ってました」
 岡倉天心は、『The Book of Tea(茶の本)』のなかでいけばなの師匠についていっている。
 
  花よ、もしミカドの国にいるのなら、いつかは鋏と鋸に身をかためた恐ろしい人に出会うかもしれない。その人は「花の師匠」と名乗っている。
 
 これにつづいて天心は、西洋社会の花の浪費について語り、これに比べると日本のいけばなの師匠の罪はとるにたらないもので、少なくとも敬意をもって花に接している、といって、いけばなをする人たちの肩をもってくれる。
 異国の道路に、ゴミとして出されているススキを、いけばなのためといって人目もはばからず拾っているミカドの国の女たちを見たら、天心先生は何か一言つけ加えてくれたかもしれない。
 日本だったら、はたして拾うだろうか、と私は思った。どうしてもほしい花材だったらどうするだろうか。二人だったら、いけばなにいいわね、と言いあって拾うが、とても衆目のなかで、一人では拾わないだろう。遠ざかっていく、ススキの山を車から見る。
 日本ではそんな私も、外国に行くと花盗人になってしまうこともあった。

 
― 解説 ―
 
チリの駐日大使としてべサ夫妻は 東京に住んでいました。初代の勅使河原蒼風家元 霞家元にもいけばなを習い 大変な親日家です。もう心のそこからいけばなが好きで 80周年に 表彰されたときは 6000人の参加者で埋まった国技館の舞台で外国からの表彰者の代表として 茜家元から賞を受け取りました。私も客席から 大きな拍手を送りました。彼女のお陰で チリには サンチャゴのほか コンセプション オソルノ ヴァルデイヴィア といったところにいけばなが広まっているのです。
2009 Koka
 
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