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南米いけばなの旅

時分の花― アルゼンチン 6

 庭はH氏の敷地の全体からみれば小さかった。たてよこ各十メートルくらいの広さだろうか。葉が散ってくねくねとした曲線を見せている雲龍柳が、トロンとした水にかげをおとしている。池の面にはほかにも木々が枝を出したり、それをおおったりしているが、池そのものは小さそうだった。その木々をはじめ庭の木は、刈りこまれているところも、新芽がのびはじめているところもある。花材採集のため、わざと刈りこまないでおいてくれたのかもしれないと、私は案内のHさんを見た、飛び石を渡っていくと庭の片隅にいくつか椿がうえられ、蕾をもっていた。八十センチほどにすっとのびた木だが、蕾はまだ堅く、私たちは切るのをやめた。庭の木々や、塀や門でたくみにかこまれていた。
 日本の三大名園のひとつといわれる四国の栗林公園について、その景観を思い出そうとしたが、それとこのエスコバールの「栗林公園」はどうも様子がちがうように思えてならなかった。池の位置、築山の配置など、同じプランで作庭したということなのだろうか。
 そのうち私には、これはH氏が栗林公園のたたずまいからうけた、さまざまな印象をコラージュしてつくったものではあるまいか、と思えてきたのである。
 実際に栗林公園の構成をその基本にしているのかもしれないが、どうもそれを単純に再現しようとしているとは考えられないのだった。しげみの一つ一つ、木々の形、おかれた石、道のまがり具合。H氏は多分、記憶のなかの公園のありさまを思い出したり、写真や図を何度も見ながら、しかし氏自身がうけた印象を何よりも大切にして庭をつくったにちがいない。
 印象のコラージュといったが、コラージュという手法は、あるものが他のものと合わせられることにより、単純におかれていた場合とはちがった思いがけない世界をつくるものだ。いけばなもまた、自然界に生えていたものを自然の秩序から切り離し、別の場所に集めて再構成するといった作業によってなりたっている。そういった意味では、H氏が庭をつくることと、いけばなという行為には、どこかに共通点があるにちがいないのだ。
 H氏の小宇宙に歩を進めながら、アルゼンチンのブエノスアイレス郊外に、自分のための「栗林公園」をもっているH氏の心情というものを私は思ってみた。
 日本からこんなにも遠いアルゼンチン。歳をとればとるほど、日本という国はH氏にとって距離的感覚では遠くなっていくのか、あるいは逆に近くなっているのか。氏が「庭」というとき、それはあの大木のある広い場所や、ブーゲンビリアが咲きかかる一画や、水のわいている草の多い所ではなく、このかこまれた苑を意味するにちがいない。
 そして私はもうひとつ別なことを考えていた。
 H氏はここに茶室を建てたかったのではないだろうか。いや正確には茶室のような空間をつくりたかったのではあるまいか。こう考えたのはその空間を構成しているはずのものを考えたからであった。
 茶室の窓、壁、柱、床。それぞれにちがった材質、面積、色あい。強さや弱さで微妙にバランスを保っている茶室の空間。それらは一見何の関連ももっていないようにみられるのに、何とハーモニーにみちあふれた空間なのだろうか。
 なまなましい外界のさまざまな事柄は、木や紙や土からなる茶室の壁によって遮断される。そのなかに入るときは、自身もまた、茶室の空間の性格を決定するひとつの要素となるのだ。
 不条理で、きちんとした方程式によって計測することが不可能な日本の空間構成。あいまいで、それゆえにやすらぎを与える場、そんな空間が日本の建築にはある。竹山道雄氏は、著書『京都の一級品』のなかで、京都にある二間茶屋という建物についてのべている。京都にあるこの建物は江戸時代の京風の特色をいまにとどめる。氏はこのいくつものエレメントで構成された空間を次のようにいう。
 
 しかしここでは、木、竹、壁、葦、紙、石などの、さまざまの異質の材料が用いてある。同じ面積の矩形でも、その材質によって、重さ――ヴァルールがちがう。また、それをさらに細かく仕切るかいなか、強い色の太い線でかこむかいなか、といったようなことでちがう。光線をとおす薄い紙と黒い厚紙、花崗岩と砂利、表面が滑らかであるかざらざらしているか……でちがう。(中略)
 こういうものは量的に数学的に計算はできないから、それをきめるのは気合とか勘とか配合のよさとか、つまり直感的なアプリオリの例の感覚である。方程式はつくれない。
 
 二軒茶屋は、異質の材料のコラージュなのだ。
 この木の材質には、この壁の面積でバランスをとる。ではその壁の色に対して、窓はどんな大きさで、材質はどんなものであるべきだろうか。

 
― 解説 ―
 
この文章でも述べているように 作品のなかでなにかのバランスを決めるとき (気合)で決めるということが私には 多々あります。それは 思いつきで決めるように見えるときもありますが 長い経験に裏打ちされたものであることは 言うまでもありません。枝を切るときから  買い物をするときにいたるまで  決断が早いとひとにはよく言われます。
 
ですが 正しい判断をするためには 体調も 心も いい状態に保っていなければなりません。それでそのため というわけでもないのですが 今年は歩くことを心がけてきました。本格的な冬に入る前 皇居周辺の早朝のウォーキングを試みています。マイペースで 時にはジョギングに近いスピードのなることもありますが 無理をしないのが私の主義。 人に追い越されてもまったく気になりません。皇居の緑が眼に心地よく 終わった後は気のせいか 少し冴えてきたような感じ――が 少しだけ続きます。
2009 Koka
 
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