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南米いけばなの旅

変化しつづける芸術― ウルグアイ 1

 ウルグアイ。正確には「レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ」。
 南米では一番小さい国である。面積は日本の約半分。その首都モンテヴィデオは、アルゼンチンのブエノスアイレスとともに「南米のパリ」といわれる。ただし、こちらは「小パリ」である。
 「南米のパリ」とわざわざうたうところをみると、本家のパリの栄光もここではいまだ衰えずということか。ファッション、建築、その他のアートをはじめ、世界の人々の関心は、いまやニューヨークや、東京などの都市に集中し、パリは一時ほど熱い視線を集めてはいないのではないかと思うことがある。けれども「南米のパリ」はそのひかえめで、やさしげな魅力を内に秘めるかのように、しゃれた町並みをみせている。旧市街は一昔前の映画に出てきそうな、重厚で黒っぽい建物が並び、どこかなつかしい雰囲気にあふれている。その通りを私たちは歩いてみた。
 今回のデモンストレーションでは、一回目が大使館の招待した人々、二回目が一般の人々という、いままでの国々と同じ予定が組まれていた。
 モンテヴィデオにも、小規模ではあるがいけばなインターナショナルの支部がある。いけばなインターナショナルは、いけばなの流派をこえた人々の集まりである。本部は東京。世界各国に支部がある。I・I(いけばなインターナショナル)は、いけばなを教えることはしないが、各支部で集まり、月一回の例会にはデモンストレーションや、その他のいけばなに関する催しを行なう。今回も、大使館関係の方々のほかにI・Iの会員たちが手伝ってくれた。そして私の二回のデモンストレーションの通訳は、その会員でもあるS夫人があたるということだった。Sさんはウルグアイ人と結婚している日本女性か、日本滞在の長かったウルグアイ人と思っていた。S夫人は英語、フランス語、それにスペイン語を話すという。私はそれを「日本語のほかに」と解釈していたのだが、そうではないと知らされて不安になってきた。
 というのは、大使館側の係のY氏の説明によると、デモンストレーションでは私の英語をS夫人がスペイン語に通訳する、という段どりになっているというからだ。ウルグアイの歴史的な背景からしても、S夫人が数カ国語を自由にあやつれることは十分理解できる。イタリアやスペインの出身者をはじめとするヨーロッパの人々がこの国に移住してきたのは、十九世紀だった。住民はその子孫がほとんどで、インディオはいないという。
 しかし、日本生まれで日本育ちの私は、英語でデモンストレーションをすることはあるが、それをまた他の国の言葉になおす、というのははじめてである。どうしたらいいのかとしばらく考えてみたが、名案が浮かぶはずもない。
 気をつけなければならないことはとりあえずどんなことだろう。
 第一に英語をゆっくりと話すこと。日本語も英語も早口の私にとっては、気をつけなければならない第一のポイントである。
 やさしい英語を使うこと。たまたま私がむずかしい単語を知っていたとしても、それをなるべくさけること。あくまでS夫人が訳しやすいように話さなければならない。私は夫人をホテルのロビーで待つあいだ、お茶を飲みながらこんなことを考えた。
 落ちついた町が再び雨に煙りはじめたころ、小柄なセニョーラSが、髪と同じ淡い茶色のレインコートを着て、Y氏と一緒にホテルにあらわれた。
 Sさんは、自分がモンテヴィデオでいけばなを教えていると話してくれた。低い声で落ちついた話しかたをするSさんはとてもひかえめな人柄に思えた。この町のたたずまいにいかにもふさわしい雰囲気をもっているSさんと、会場の下見に行った。劇場の舞台の上に二人で立ってみたとき、Sさんは、
「実は、こんな大きい舞台で通訳したことはないの。どうなるかしら」
 とそっと言い、私は少し驚いた。お互い「いけばな」という共通語で少しは補いあえないだろうか、とも思った。しかし、私のいままでの、いけばなと外国語がからんだ体験を思い出してみれば、この英語からスペイン語へという作業は、そう簡単にはいかないだろう。
 数年間の、ボランティアでいけばなの雑誌の翻訳を手伝った経験を思い出した。
 いけかたの技術的な説明については、まず問題はない。外国人会員が最終的にチェックをしてくれるからである。だが文化的な説明の表現の翻訳はむずかしい。たとえ、ピッタリの訳語がみつかっても、まわりの文章とかけ離れていたり、それだけが浮き上がってしまっては困るのである。これらの文章や言葉には読み手の体験や理解度が大きく関係してくるから、非のうちどころのない訳がきわめて出しにくい。なんとか訳し終わり、はじめから読んでみると、やはりすわりが悪くて、著者は本当のところ何を言いたいの!と言いだしたくなることもある。といって翻訳者の個性が目立ってはいけない。だからみごとな訳を読んだり聞いたりすると、私は人のことであっても胸のすく思いを味わう。彫刻家の堀内正和氏が、芸術には正解がなく、自由解しかないといっておられたが、翻訳や通訳にもあてはまるのではないだろうか。
 デモンストレーションでは、作品、作者、観客、通訳と、どの要素も見逃すことはできない。花をいけながら、通訳が訳している私の言葉を聞くという体験を積み重ねているうちに、私は、次に何をどう言おうかと、その点に相当意識を集中している自分に気がつく。ある種の平衡感覚を保とうとしているのである。
 訳が終わり、通訳や作品に分散していた観客の意識が製作中の作品にもどってくる。通訳の話の長さやその調子、そしてもちろん製作の進行具合で、次の話の切り出しのタイミングが決まってくる。いままで私の通訳をしてくれた人はプロの通訳ではない。いけばなをしている人々である。訳しかたの速度もスタイルも各々異なる。それをみていて、あっさりと訳す人なら、もう一度同じことをちがう言葉で印象づけたり、また熱っぽく話すようなタイプの人のときにはさらりと話をする。作品を効果的に見せ、解説するためにも作品にうまく焦点を絞り込んでいくような訳し方、話しかたが求められるのである。ああいえばこう、その結果に対してまたこうと、その展開を刻々と組み直していかなければならない。また、そういうことが話者と通訳のあいだに共有されていなければならない。
 たとえ「いけばな」という共通の表現手段をもっていても、話の「間」とか、話しかた、話のもっていきかたといったくせのようなものはそれぞれにある。それを互いに感じ取り、補いあって仕事を進めていくということは、言葉をこえた動物的感覚に近いものではないだろうか。
 Sさんが、打ち合わせは私の家でしませんかと申し出てくれたとき、私は一も二もなくうけたのだった。彼女とできるだけ英語でたくさんの話をして、なれておきたかった。
 市の中心から少しそれた商店街と住宅街の中間地域にあるSさんの家で、花材のおき場所や花器のこと、採集のことなどを話した。リビングルームの飾り棚の上には、若いときに亡くなったらしい軍服姿のご主人の写真が、銀の写真立てのなかにセピア色になって飾られていた。自作の花器らしいものや、乾燥した花材や、水さしなどもおかれている。Sさんがお茶とクッキーを運んできた。
 Sさんと、モンテヴィデオのいけばなに関係している人々のこと、彼女のいけばなのクラスのこと、そしてジャーナリストをしているお嬢さんのことなどを話した。亡くなったご主人の写真アルバムもみせてくれた。若い日のSさんがわきで微笑んでいた。
 時を刻む時計の音がどこからか聞こえてくる。日本からみれば地球の真裏にある南米のモンテヴィデオの一軒の家の中で、私はいまお茶を飲んでいる。小さいころ風邪気味で学校を休んだとき、家でおとなしくしているように言われ、朝がゆるやかに昼になっていく不思議な時間の移り変わりを経験した。いまごろ、友人たちは教室で授業をうけているだろうとその様子をあるこれ想像しながら、一方でふだんの自分が知らない光が部屋にあふれているのを見て、とても得をしたような、そして自分がちがう空間にスッポリとはまってしまったような、そんな気がした。それから時間も空間もはるかにへだたったところにいるのに、ここでまた昔のそんな気持ちを体験しているといった、何ともいえないやすらぎと不思議さの同居したときが、私のなかを過ぎていくのだ。
 何でもないようなそんなできごと、準備や連絡や、人々とのかかわりあい、それらの一つ一つがデモンストレーションと同じくらい貴重なものだと私には思われるのだった。幕はもうあがり、デモンストレーションという舞台への橋がかりを、私はすでに歩みはじめているのだった。

 
― 解説 ―
 
ご縁があって訪れた国で これが最初で最後だろうと思っても あとで何回も行った国もあれば このときから ずっとご縁のない国もあります。ウルグアイがそうです。 もう記憶の中には首都モンテヴィデオは ほとんど存在していないのですが 古くてどっしりとしたヨーロッパ的な建物 ラプラタ川の茶色い色などが、かろうじて記憶のすみにあります。 ウルグアイラウンドというニュースの中での文字しか この国の名前を見かけることは ありませんが 皆さんは どうでしょうか。
それはそうと 金曜日 パソコンを開けると チリのべサさんから メールが入っていました。一昨年の今頃は私はサンチャゴで研究会をして御世話になっていました。11月に生徒と東京に行く、本部の教室の授業をうけたいが あなたのクラスも受けたい――とありました。べサさんますます元気です。楽しみにお待ちしていますよ!
2009 Koka
 
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